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アーユルヴェーダって何と聞かれたら?

私は2004年、今から14年前にアーユルヴェーダの大学へ入学したのだけど、
その2年くらい前に日本アーユルヴェーダスクールの3ヶ月コースに通って、
ごくイントロダクション的な講義を受けた。


その当時は、”アーユルヴェーダ”をいう言葉を聞いたことがある人はいたけれど、
それが何のことか知っている人は少なかったし、
インターネットでアーユルヴェーダを検索に書けても、
ほんの10個くらいのサイトが出てきたかどうか、という感じだった。

当時はアーユルヴェーダという言葉を聞いたことがある人といったら、
インドに行ったことがある人か、世界ふしぎ発見のような、テレビ番組でチラっとみた
おでこに油をたらす奴(シローダーラー)。
というくらいの認識の人にしかあったことがなかった。

ネットで本を買うということもなかったから、あの頃は新宿紀伊国屋にいってアーユルヴェーダの本を探したけど、
すっごく真面目な文字しかない2100円くらいの硬くて薄い本で
内容は話ことばになっているようなものか、
英語のアーユルヴェーダのイントロ的な本を日本語に翻訳してものしか売っていなかった。

その頃の私は、”アーユルヴェーダ”というという言葉が本や、物に印刷してあるというだけで、
もうすごく嬉しくて、かっこよく見えて迷わず、どっちも買った。

買っってきたのは良いけど、読んでみても全然、頭に入ってこなかったし、
カタカナが沢山出てきてちんぷんかんぷん。なんと発音するのが正しいのか判らなくし、
神様とか、精神論が沢山出てきて踏み込んではいけない怪しい世界に見えた。

神様とか目に見えないけどある、みたいな話はそれまでもなんとなく避けてきたし、
スピリチュアリティについて熱く話すことに夢中になっている人にあったこともあるけど、
その人が夢中になればなるほど、恐怖心すら持っっちゃうくらいだった。

その後、2004年の10月にインドに留学してアーユルヴェーダの大学に通うようになった。

時々日本に帰って、友達や知り合いや、いろんな人に、
「今何してるの?」とか
「インドで何の勉強しているの?」と聞かれたら、
「アーユルヴェーダの勉強しているよ」と答えるようになった。

そうすると相手は必ず
「アーユルヴェーダって何?」と聞いた。

アーユルヴェーダって何?

これは普通の会話の中にでてくる、普通の問い掛けなのだけど、
アーユルヴェーダの世界では、こういう質問をすごく
真面目に受け止めて本質的な回答をしようとする

言葉による想念を曖昧にしないで、カチッと意義を与えるために、アーユルヴェーダの理論にはいつも定義がある。

だから”アーユルヴェーダって何?”を、アーユルヴェーダの定義、といういうものを問われているとしたら、
何千年も前の古い言葉で書かれた命の定義から始まって
どのようにしてこの命が始まって、その命をいかに、生命力の限り、謳歌しつつ、
かつ、他の生き物を苦しめず、生ききるか、

人としてのあるべき生きざまについて説くのがアーユルヴェーダなのだけど、
そういう深淵な話が始まってしまえる、
すごく大きなテーマが「アーユルヴェーダってなに?」の定義的な回答なのだけど。

私の友達や、知り合いや、両親の店のお客様は、あの時、
そういう深淵なことを聞いているのではなくて、

史歩ちゃんのやっているそのアーユルヴェーダってなに?
どんなことをするの?

という素朴な疑問をカジュアルに質問しているわけで、

そこで、私がいきなり

「命って、何だと思う?」と始めることは全く求められていない、
あら、この人、変な世界の話を始めた。みたいな印象を持たれることになって、
結局、あの紀伊国屋で買った難しい本みたいに知りたいこととかけ離れた回答を
真面目にしてしまうことが判っていたから、

「中国には中医学、日本にも日本独自の治療法があるじゃん?
そんな感じでインドにもあるんだよね、それがアーユルヴェーダ」
と答えていた。
全然、定義的な回答じゃないんだけど、この答えにもう、ほとんどの人が納得していた。

ああ、なるほどね、そういうものね、って感じで、
今、及川さんはそういうことをやっているんだなっていう雰囲気をつかんだ感じで納得していた。

このアーユルヴェーダってなに?という質問は
そのあともことあるごとに私に問いかけられる質問の一つで、
だんだん、私のアーユルヴェーダが変化していくことによって、
その質問への回答も変化していった。


ちょっと話は変わるけど、昨日、
スジョク・セラピーなるものを広める活動をしているインド支部代表者なるインド人が、
日本におけるいろいろな治療法の話をしたいから、私に会いたいということで友人づてに連絡が来た。

なぜ会いたいのか、わからないけどスジョク・セラピーをネットで検索したら、創設者が韓国人だった。
それで日本人と韓国人とを同じと思っている系の人かなと思って、

「私、日本人だし、スジョク・セラピーも知らないし、日本の伝統療法も普通の日本人より知らないんだよ。たぶん韓国と日本を一緒にしちゃってんじゃない?古い牛乳飲んでお腹が緩いから行きたくない」
と友達に言ったのだけど、
その代表の人が私の友達の遠い親戚だったから、
そんならただ遊びに行くかということで会いに行ってきた。


着いたらまず聞かれたのは
「とりあえず、アイス?それともチャイ?」という、なんか、
結婚したばかりの旦那さんに新妻が聞くといわれている質問に似てるけど、
インドバージョンのおもてなしを受けて

友人は自分の叔母にあたる人に、「なにもいりませんよ、お気遣いなく」
といっていたけど、私は友人の耳元に小さな声で
「アイス」といった。


そのあと、軽く挨拶をして、私がパンチャカルマの修士を終えたところだとか、友人は水銀製薬学科を終えたとか
アーユルヴェーダって面白いよとか、日本でもパンチャカルマで治療できるのかとか、

その代表の人のお父さんが1週間以上の便秘で、その前は、軟便で、
軟便を止める現代医学の薬を飲んだら、今度はひどい便秘で、
結局30キロ近く体重が落ちたとか、

これをパンチャカルマでどうやって治すの?ときかれて、

便も体を支えているから、いきなり全部出さないほうがいいよとか、
薬を飲んでも薬が消化しなかったら効果もないから、
バスティのほうがいいんじゃないかとか、
友人にいろいろアドヴァイスしていた。

でもなんとなく、ただのおしゃべりというリラックスした会話じゃなくて、
訪問販売の人の雰囲気というか、これから何か別の話をするための前の前座の話って感じ
の雰囲気が漂っていた。

始めは、私に治療してほしくて呼んだのかなと思って、
やってみたかったらサポートするけどやってみる?と聞いてみたのだけど、
どうこたえようかも迷っているような眼をしたかから、
パンチャカルマをしてほしくて呼んだのではないと察した。

一通り質問を受けたけど、インドの人によくあることなんだけど、
自分が話すのは得意なんだけど、話を聞くのができなくて、
長い回答は最後まで聞かないで途中で早合点して話し始めるから、答えは短く簡潔にするしかない。

結局、どの質問にも物足りないくらいの短い回答をして、
相手がもっと質問してきたら、また答える、距離の短いキャッチボールで様子を見ることにした。

それに真面目に答えても、
実際はバスティする気もないし、私が何を提案できるか、
私を品定めしているような印象を受けた。

なんでそう思うかというと、私も講師をしているときに、生
徒さん達の顔を見て、どういう方向に話をしたらもっと興味を持つか、
この手の話題はあまり楽しく聞いてない、
などそれなりに推し量りながら講義することもあるので、そ
の代表の人が相当、レクチャー的に人前で話しをすることになれていて、
説得するみたいに話すスタイルなのも判ったし、
私の反応を非常に強く観察しているのを感じたから戸惑った。

戸惑ったのは、のんきに友達の親戚の家でアイスを食べている日本人留学生
としてここにいるのではないのが分かったけど、
では今度はなにが目的かわからなかったから。


彼は、少し、話術で人を引き付けることに自信を持っているようで、
私が何を話しても、「まさに、そのとおり!」とか、
「きみはつまり、これこれしかじか・・・、といっているんだね?」みたいに、
同調したり、それがあたかも自分も同じように思っていた所だという感じに、
君とは気が合いそうだ、みたいな雰囲気を故意に作っていて、
同じ基準で世の中を見ているよというかんじの世界感を作ろうとしていて、
それもすごく戸惑った。

ほんとのこと言うと、帰りたくなっちゃったんだけど、友人の親戚という手前もあるし、
居心地悪くも耐えた。

ただ私に会ってみたかったんじゃなくて、
何か目的を持って
古い牛乳で緩くなったお腹を押してまで会いに越させたかった理由が何かあると思ったから、そ
れなら早く不毛なやり取りはおしまいにして、本題に入ってほしくなった。


それで聞いてみたのが
「スジョク・セラピーって何?」
だった。

そこから一時間、彼の壮大なレクチャ―が始まってしまって、むしろ、後悔した。

私は日本人なんだけど、インド人と同じように、人の話を聞くのが苦手で、
やり取りのない一方的に話を黙って聞き続ける.には、
相当面白い話か、聞いたことのない話か、結末が予想つかないか、
とにかく、彼の話は3:7の法則、人間の体の水の割合と地球の水の割合と、
分子の水の割合の共通点とか、だれも知らなかったことみたいに話すのだけど、
ハッキリ言って退屈だったのだけど、
もう乗りに乗っちゃって、止まらなくなっているようだった。

指が5本なのはなぜだと思う?といってその答えが自分独自の
もので、中医学でもアーユルヴェーダでもそういっているとか言ったり、
指の節が3つに分かれているのはなぜだ?理由がある、
神様が理由があってこうした。とか、
すごく持論の展開だった。


アーユルヴェーダの理論は古典書という拠り所をもっている、
アーユルヴェーダ医どうしで、アーユルヴェーダの持論を展開しても、
みんな同じ拠り所からひねり出した持論だから、反論しようがあるし、
納得することもある。

でも拠り所がない個人の創設したセラピーはリフレクソロジーや、
カラーセラピー、針、指圧、確立されたいろいろな療法の共通点を引き合いにだして、
すべて同じことを言っている、それを一体化させたらもっと簡単に治療できるといって、
新しい良いとこどりの治療法ができると結論する。
でもそれはずるい。し、浅いと思った。

一つ一つ突き詰めてもいないのに、自分に都合の良い解釈をして全部のセラピーの共通点を自分の価値観で
ピックアップしてもそれをあっているとも間違っているとも良いようななくて、ただ、あなたはそう思うんだね、
都しか言いようがない。
それぞれ違う理屈をもったセラピーなのに、
理論の横取りな上に、上手に結論を挿げ替えているようなちぐはぐな治療法に感じた。


拠り所のない療法は反論ポイントもない。どこをつついても、実体がないからだ。

結局1時間たっても何がスジョクセラピーなのかわからなかったから、
今度は

「何を使って治療するの?」と聞いた。

「それを話すには時間が足りない、40時間はかかる」。
「パンフレットに書いてあるから読んで」、と言われた。

そして
「痛みのコントロールが得意分野だ」と良い、「どこか痛いところはないか」
と聞かれたけど、痛いところがないので、肩こりはあるよ、といったら、
それをたちまち取り除くという。

そして取り出したのは、
細い棒。
足つぼを押すための先端に球状の突起を付けた木の棒ががあるけど、
彼の持っていた器具も、あれのステンレス版でもっと細.いものだった。

それで私の親指の付け根を8か所 押しながら「どこが一番痛い?」と聞いたけど、
特にどれっていうか全部同じくらい痛かった。
どこかのスポットが強烈に痛いのではなくて、全体が細い棒でぐりぐりされている痛さだ。

どこが一番か考えあぐねて、うーんといっていると、
今度はもっと強く、3㎝くらいの範囲を縦にぐりぐりぐりぐりと押し込むようにこすりつけて、
めっちゃクチャ!痛かった。

黙っていたけど、心の中では「いでででで!」。

そして、「ほら、肩こり取れたでしょう?」といわれた
けど、
「正直言って、なんとなく、右からより、左の肩のほうが軽くなったような気がしています。
でももっと正直に言うと、以前の肩の痛みより、
今の親指の付け根がすごく痛い。」

友達は面白いこというなぁ、史歩は、って感じで笑っていたけど、
彼は笑ってなかった。

ぐりぐりされたところは赤くみみずばれに膨れ上がっていたけど、
その赤いミミズバレに誰かが気づいて、
「アー!すごい腫れちゃってる!」とか
「ダイジョブ?」
とか大騒ぎしてほしくなかったから、
ぎょっとはしたけど、自分で凝視すると、何見てるのかと思われて
みみずばれがばれたくなかったし、
擦りたかったけど、何擦ってるのかと思われたくなくて、
ジンジンしながら痛みに知らんぷりした。

何に気を遣ったのかわからないけど、騒ぎたくなかった。


そのあと、指に赤とオレンジのマジックで印をつけて、
そこに緑豆を載せてマスキングテープで固定するようにして貼り付けるところを見学した。

結局、23時近くになって、ではそろそろといってお暇した。

外に出て、今のみて、どう思った?と友人に聞いた、
このセラピーがアーユルヴェーダよりも優れているとおもった?
投げかけてみた。

友人たちは、なんと理解していいかわからないようで、考えて黙っていた。

私は、
彼の様な正確な説明と自分のやっていることに対する理論の理解度、
施術のときの正確さをとても見習うところだと思った。

私たちは、私たちのアーユルヴェーダを、
彼が彼のセラピーに向かって行く正確さ、実践すると、
私たちのアーユルヴェーダがもっと良くなるね、
といって別れた。

そのよる友達から、
「しほごめんね」とメッセージが来たけど、
「何がごめんね?たのしかったよ」と返事をしたけど、
友達のごめんねに、いろんなことが切なくなった。

けっきょくスジョク・セラピーとは何か?
その答えを彼は言わなかったけど、
私なりに、どんなものなのか、私の一晩の経験なりの回答は得られたと思う。



最近、アーユルヴェーダ大学の外国人留学生の友達が、
アーユルヴェーダってなに?
の質問に答えているところを見た。

「中国にある中医学、のようにインドにある伝統医学」と答えていた。

これは、私も以前同じように答えていた回答なんだけど、今はそうじゃないと思う。
アーユルヴェーダがインドだけのもだとおもはないからだ。
アーユルヴェーダはここがインドになる前からあった。インドだけじゃなくて、スリランカ、ネパール、パキスタン、アフガニスタンにも広く広まっているから。

インドのものという感じは今はもう私にはない。


そのあと、なぜアーユルヴェーダ医師になったのか?という質問に
「現代医学で治せなかった自分の病気がアーユルヴェーダでよくなったから」という回答だった。
これも良くある回答。

「ちょっと待って」と。私は、言いたくなった。

何人かの西洋医学の医者に診てもらって、
処方された薬が合わなかったのか、観たてが違っていたのか、
原因はわからないけど、思ったような効果が出なかったということで、
西洋医学そのものの信憑性を否定することはできないと思う。

それはアーユルヴェーダにもいえることで、
アーユルヴェーダの治療を受けてみて、アーユルヴェーダが効かないという結論を出す人がいるけど、
観たてているのは人だから、そのアーユルヴェーダ医の見立て違いかもしれないし、
その患者さんが生活法の指導をきちんと守りながら治療を受けてもらうための説得が足りなかったのか、
何が原因で効果が出なかったかわからないけど、
それでアーユルヴェーダじたいがダメなものだと決めつけるのは違う。

現代医学でもアーユルヴェーダでも中医学でも、
何か介入して、結局その人が良くなったのであれは、
良くなることがアーユルヴェーダだだと思う。
そんなこと言いだしたらずるいのかもしれないけど、”生ききる”ことに力を貸すこと。

アーユルヴェーダって別にハーブで治療する方法だけでもないし、
パンチャカルマだけでもないし、手術もあるし、呪文もあるし、

インド人のアーユルヴェーダ医が処方したからアーユルヴェーダで、
西洋医学の医師が処方した生物学的製剤を投与されることが西洋医学ということでもない。

都すら、今は思ってしまってる。


というのが人の回答に違和感を持つことで、
自分がそう思っていないということが分かった。

アーユルヴェーダの治療とは何か。

正常な組織を傷つけることなく、
異常な個所を癒すことであり、
命が命いっぱいにいきる生きざまを支えることができる知識のこと

だと思う。

治療をして、その病気は治ったけど、ほかの病気になったり、
病気は治ったけど、生きていることがつまらなくなったり、
そんなことがあったらそれはアーユルヴェーダ医が治療しても、
ハーブで治療してもアーユルヴェーダじゃない。

もしかしたら病気は完全には良くなってないんだけど、
生ききってるほうがアーユルヴェーダ。


アーユルヴェーダってなに?
これはこれからも変わっていくと思う。変

わっているときは変わっていることに気が付かないけど、
当たり前だと思っていたことにふと違和感を感じることで
自分が変わったということに気付く

とっていうこともあるもんだ。

という話でした。

以上。






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